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映画だったりそうじゃなかったりします。

『ジュリアン』

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こんにちは、きゅうです。

『ジュリアン』を観て、これは語ることが多すぎる…と熱をそのままにブログを書いています。消えかけていた長文を打つことに対するネガティブな気持ちなんて吹き飛ぶくらいの衝撃作でした。

終盤のネタバレはありませんが細かな演出には触れていきますのでご注意ください。

 

邦題のタイトルである主人公ジュリアン、11歳。

この映画は彼の目、耳、その他すべての感覚を通して描かれていて、多くの方が感想でおっしゃっているようにとてもストレスフルな体験となること間違いなしです。覚悟して臨んだものの、鳥肌もじわじわ溢れる涙も止まらず焦りました。家族もの、親子ものに共感できなかったことは数え切れないほどですが、初めてと言っていいほどに、過去の経験と重なり「わかる…うう…」と苦しみました。そんなわたしの視点から。

このストーリーの核となるのは父親。この手の父親をどのように表現してよいのか未だにわかりませんが、宣伝ではDV夫と書かれていました。となると、わたしの経験もDVだったのか…?となりますが、なんだかしっくりこないのです。共依存を伴わない、完全なる拒絶の上にすら振りかざされる支配、執着、圧力。理想というか妄想というか、目の前の存在を無視して歪んだ「親子」観を不躾に押し付けてくるのがぴったり重なりました。

この作品で一番恐ろしいと感じたのが父親の運転する車の助手席に乗る部分なのですが、一挙手一投足に怯えながら無言で前を向くところ、荒い運転で車が立てる音が嫌に大きく聞こえるところ。こんなにも的確に表現されていることに驚きました。地獄のドライブ、といつも心の中で唱えていた、あれがそのまま。もちろん泣きました。

 

ラストまで観て、しばらく呆然としましたが、その先にはふつふつと湧いてくる怒りがありました。それは行き場のない、苦しいタイプの怒りではなく、ポジティブさをまとった怒りというか。

わたしは被害者だと思いたくないので、生存者/サバイバーという言葉を使いたいのですが、そんな皆様。家族を重んじることが当たり前の世界の綺麗事で、恐れや怒り、嫌悪感を覆い隠さなくても良いんです。その常識では太刀打ちできないような人間が存在するということを、真っ直ぐに表現してくれたこの映画に感謝します。美談にしないでくれてありがとう。11歳の、ひたすら大人たちの顔色を伺っていたわたしと、今必死に生き抜いている子どもたちに贈りたい作品。ただ、かさぶたの上から同じ傷をつけるレベルの体験であることは間違い無いので、みんながみんな最後まで観られるとは思いません。フラッシュバックしてさらに傷付いてまで向き合わなければならないことではないのですよ、こんな経験は。「終わった」。それでいいのです。もう一度鑑賞することはないであろうこの映画とともに、「あの男」にも大きめの蓋を被せてお別れします。

 

鑑賞後、休憩したくて頼んだキャラメルラテが本当に甘かった。

ではまた。