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映画だったりそうじゃなかったりします。

馬を放たれるわたしたち

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こんにちは、きゅうです。

わたしの住む地域でも映画館が営業自粛を始めて少し経ちますが、根っこはおうち鑑賞大好きな真性インドア人間なので、想像より大丈夫な日々を送っています。ただ、劇場鑑賞用に手帳アプリで観たい映画の公開期間と時間をだだーっと登録してはタイムテーブルを組んでいたのですが、それはもちろん真っ白になりました。4月の鑑賞予定で挙げていた好きな監督の最新作が観られないままになってしまったのと、一週間を乗り越えた後逃げ込むところがなくなってしまったのが辛いな。家に逃げ帰り、好きなものをたくさん食べて保身しているので確実に太りました…。

そんな中、昨夜鑑賞したのが『馬を放つ』という作品。予告で気になっていてリストインしていた作品でしたが、キルギスの作品とのこと。キルギス?ぱっと場所も出てこない、文化もわからない、そのまま鑑賞。映像を見て「モンゴルのあたりかなぁ」となり、ムスリムの描写で「中東かなぁ」となり、観終わったあとに調べて答え合わせ。それくらい普段触れてこなかった国、知らなかった文化を、浴びることができるのが映画の良さだなあ。なんて考え始めたら眠れなくなりそうだったので、ゆっくり寝てからこの記事を書いています。

馬を放つ』の主題は伝統や歴史に基づいた信念を持つ主人公と村人たちとの軋轢にあるのかなと思いつつ、かといって「伝統重んじる派 VS 流行で生活変える派」みたいなストーリーでもないのでは、とも思う。主人公の信念は「歴史は重んじるもの」とか「伝統は変えてはならない」とか、そんな次元ではなく、もっと単純に「馬は放たれているべき」なのではないか。遊牧民として馬を相棒にしてきた歴史で培われた主人公の信念かもしれないけれど、彼の頭を剃ってくれたムスリムのように、同じ文化の中で生きてきた他人にも理解されないような世界が、彼の中には広がっているのだと思いました。そしてその信念や世界は周りが何と言おうとも変えることはできなくて、文化的にやってはいけないこと、というだけでは抗えないような衝動を生むものなのかな、とも。かと言ってみんながみんな自分の信念に沿って馬を放ったり牛を放ったりライオンを放ったり、欲求を放ってしまったら社会は崩壊してしまうわけで、全肯定するわけにはいかないのだけれど。

そんな、こちらが何と言おうとも目の前で繰り広げられる自分とは異なる信念、身に覚えがあるなと思ったら、それって映画じゃないですか。映画館に行けば異国の映画を2時間浴びられる。今ならおうちでアプリを立ち上げれば異国の映画が文字通り手に入る。もちろん映画は創作物なので、その中で描かれている生活や文化がまったくもって本当の姿というわけではないかもしれない、けれど、まったくもって作り物というわけでも絶対にない。この作品で言えば、イスラム教の教えや、男尊女卑、不倫はいけないことという考え方。当然のものとして、前提としてある文化は映画を通して観ている人にぶつかってくる。さらにその上で登場人物たちが信念に従って馬を放ったりしてくるわけで。わたしはそのぶつけられる文化や信念をどうするかといえば、ただ受け止める。2時間の間は怒ったり否定したりしても映画は変わらないので、ただ受け止めるしかないのです。受け入れるではなく、受け止める。納得しなくてもいい、ただ、「そういうものなんだ」と。

そういえばわたしはプライベートでも仕事でも、人と関わる時のスタンスはこれなのですが、映画を観ることで培われてきた考え方なのかもと気付きました。わたしはわたしの「馬を放つ」し、隣で全然違う「馬を放つ」人が居ても、ちょっと眺めてみる。自分の心にも良いのでこのスタンスで生きていきますが、変えなければいけない社会に対してだけはやってはいけないと思うので、そこには整然とした怒りをもって。

あーあ、こんな風に活用していたら、「馬を放つ」=「自分の信念を貫くこと」として日常的に使いたくなってしまうなあ。周りの人には伝わらないしちょっと気持ち悪がられそうなのでやめますが、映画好きさんは使っていきましょうね。

では、また。