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映画だったりそうじゃなかったりします。

『ビューティフル・デイ』

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こんにちは、きゅうです。以前書いた記事では昨日はラブストーリーに浸る1日だったはずですが、あまりの暑さに外出できませんでした。暑さを我慢してまで、行きたい!とならなかったのは、先日強行スケジュールで鑑賞してきた「ビューティフル・デイ」の余韻が凄まじいことが大きな理由です。ツイッターにいつも通り感想を書いたのですが、語りきれない!パンフレット読んでレビュー漁ってブログ書きたい!と思ったので実行しています。

以下解釈などを書くので、未見の方にはネタバレになってしまうかもしれません。ご注意ください。

 

ビューティフル・デイ」(原題 "You Were Never Really Here")

監督・脚本は「少年は残酷な弓を射る」のリン・ラムジー、主演ホアキン・フェニックス

予告を見た時点では、殺し屋の中年男性と追われる美少女を描く無骨なノワールといった感じを想像していて、大好きな映画「レオン」のような雰囲気もあるのかなと思っていました。が、その予想は大外れ。「大柄な殺し屋の中年男性」だと思っていたジョーが「傷ついた柔らかい心の少年のまま成長した姿」で、その壊れた心が求める救いや解放、カタルシスといった内面的な部分を本当に繊細に描いていた作品なのでした。

屈強に見えるジョーは、幼い頃からの虐待や、救えなかった子どもたちのトラウマに苦しみ、彼の行動のすべてはそれらから逃れるためだったと感じました。常につきまとう自殺願望、父親の虐待からずっと救うことができなかった母親への優しさ、幼い自分を重ねるように子どもを救う。そんな日々の中出会った少女ニーナ。心の壊れた2人の繋がりが物語を動かしていくわけですが、ジョーを生かして「しまう」ようにも感じてしまいました。というのも、自宅への侵入者に寄り添うシーンから湖のシーンまで、ジョーの心を縛っていた母親を父親の暴力から助けられなかったという罪悪感から解放されたような、ある種救われたような感じがしたのです。美しい森、沈んでいく身体、それで彼がトラウマとの戦いを終わらせられるなら、と。それでも見えたニーナの姿。また生きていく道を選んだジョー。涙が溢れていました。

レビューサイトを漁ってみると、暴力描写に物足りなさを感じた人もいたようですが、わたしはそのジョーの「仕事」をSEとも音楽ともつかない音、映像が盛り上げていてとてもスタイリッシュなのが好みでした。ジョーにとっても、救いを得るための目的が少女たちを救うことであって、暴力は手段にすぎないと思うのです。

さて、そこからニーナを救出に向かうわけですが、助けられなかったと思って崩れ落ちるジョーは「自分は弱い」と泣く。その姿なんてまさに虐待を受けていた少年のままで、守るべき存在もいなくなって、今度こそ折れてしまうのではないかと思いました。そこでニーナ。ニーナ!少女は弱く、守らなければいけないという考えを覆されて、きっとジョーのトラウマ(とくに売春させられていた少女たちに対する)は改善したのではないかなと思いました。

そしてラスト、原題の"You Were Never Really Here"の通りそこにいたはずの2人はさっと居なくなる。周りとの繋がりを持たない2人。存在しなかった2人。「ビューティフル・デイ」に2人がどこへ向かうのかはわかりませんが、多くのしがらみから解放された2人はとりあえずの自由、好きなところに行ける自由を手にしたことは確かなのではないでしょうか。

 

そんなこんなで、普段は収集し始めるとキリがないので買わないパンフレットを買ってしまったくらいお気に入りの作品になったのでした。

それでは。